駆けある記

武相荘ー白州次郎と正子を訪ねる

こんにちは、日本共産党練馬区選出都議会議員とや英津子です、

今年はお盆前にとった夏休みの最後の日である12日、白州次郎と正子が暮らした家「武相荘」を訪ねました。

英国ケンブリッジに学び、GHQとの折衝にあたり、東北電力の会長も務めた白州次郎。正子は随筆家であり、小林秀雄や青山二郎などと親交を深め、骨董収集やら能楽と才能を発揮した人物として知られています。

町田市にある農家を買い取った屋敷は、テレビや新聞で取りあげられているのでご存じの方も多いと思います。

土壁に彫られた「武相荘」のかすれた文字がまず何とも味があり、気に入りました。屋敷までの小道は暑い最中に訪ねたせいもあり、木立や竹藪が涼しげで、救われたような気持ちになります。

チケット売り場とお土産屋の建物を右に見て、ガレージを見るとカフェがあり、白州次郎の愛車「ベントレー」と同型車が停まっています。クラッシックカーの横にはご本人の写真の展示があり、なんと似合っているのだろうなどと思いながらミュージアムへ。

この時期は武相荘の「夏」の展示でした。正子氏が好んで集めた骨董や着物が展示され、書斎も見ることができました。柱も梁も立派で、職員の方に聞くと100年以上は経っているとの事。長い年月を経た家がこうして残っていることに感動し、ガラス窓やいろりを眺めました。

ミュージアムには、次郎の残した「葬式無用、戒名不用」と書いた遺書。また「無駄のある家」という題名の正子氏のエッセイが展示してありましたので、一部を除き以下に紹介します。二人にまつわる展示では骨董や着物、書斎や家のつくりはもちろんですが、次郎の「遺書」と正子の「無駄のある家」の文章が私の気持ちにかみ合っており、心に残るものでした。

「無駄のある家」
 鶴川の家を買ったのは、昭和十五年で、移ったのは戦争がはじまって直ぐのことであった。別に疎開の意味はなく、かねてから静かな農村、それも東京からあまり遠くない所に住みたいと思っていた。現在は町田市になっているが、当時は鶴川村といい、この辺に(すくなくともその頃は)ざらにあった極ふつうの農家である。手放すくらいだからひどく荒れており、それから三十年かけて、少しずつ直し、今もまだ直しつづけている。
 もともと住居はそうしたものなので、これでいい、と満足するときはない。綿密な計画を立てて、設計してみた所で、住んでみれば何かと不自由なことが出てくる。さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作りすぎても、人間が建築に左右されることになり、生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなのである。俗にいわれるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。
 ~~
明日はまたどうなるかわからない。そういうものが家であり、人間であり、人間の生活であるからだが、原始的な農家は私の気ままな暮らしを許してくれる。三十年近くの間、よく堪えてくれたと有りがたく思っている。

また訪れてみたいと思っています。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP